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動物園の歴史(日本の動物園)



世界的な動物園の歩みは、[動物園の歴史(世界の動物園)]で紹介しましたが、では、日本ではどのような歩みを経てきたのでしょうか。

江戸時代の見世物小屋

江戸時代の見世物小屋

日本で庶民が動物を見て楽しむようになるのは、江戸時代に入ってからです。17世紀前半に描かれた四条河原遊楽図屏風に、京都の鴨川河川敷で仮設の檻の中にいるヤマアラシを棒でつついて観客に見せている場面が描かれています。また、南蛮船が運んできた珍しい動物は興行師に買い取られ、大阪(道頓堀)・名古屋(大須)・江戸(葺屋丁・堺丁)などの大都市で巡回興行が行なわれていたようです。その後、孔雀茶屋や花鳥茶屋、鹿茶屋、花屋敷などと呼ばれる美しい鳥や珍しい動物を見せる「見世物小屋」が、常設展示施設として生まれ、繁盛しました。定まった場所で動物を一般に公開していたという点においては、これらは江戸時代の動物園と言えますが、結果的に、これらは日本の動物園の源流とはなっていません。

福澤諭吉が日本に「動物園」を紹介

福澤諭吉が日本に「動物園」を紹介

そういったものから一転して、日本で近代的な動物園をつくる大きなきっかけになったのは、慶応義塾の創設者であり、1万円札の顔として知られる福沢諭吉が著した『西洋事情』です。明治維新の前後、近代化に力を入れていた日本は、欧米で盛んに行なわれていた万博博覧会に使節団を派遣し、欧米の都市施設や制度の吸収につとめました。その使節団の一員だった諭吉は、帰国後の1866年(慶応2年)に西欧文明の制度や施設を紹介する書物として著書『西洋事情』を出版。この中で、「動物園」という単語を初めて用い、博物館の概念による動植物園の姿を紹介します。そう、「動物園」の名付け親は、福沢諭吉なのです。

1882年、日本初の動物園「上野動物園」の開園

1882年、日本初の動物園「上野動物園」の開園

そして、1882年、科学博物館の付属施設として、日本で初めての動物園となる「上野動物園 」が開園します。1873年(明治6年)にウィーンで開催された万博に参加した日本は、生きた動物も出品し、博覧会終了後に持ち帰えられた出品物は、東京の日比谷に近い山下町に開設した建物で飼育展示されました。1881年に博物館が上野公園に移されることになり、それに伴って動物園展示施設も上野公園に移され、上野動物園誕生へとなったのです。

日本が国際社会に進出していく過程で、外国との交流機会が増えたことにより、上野動物園には様々な外国産の動物がやってくるようになります。そして、この外国産の珍しい動物を展示することで、利用者は飛躍的に伸びていきました。

その後、京都、大阪、名古屋の3大都市で開催された勧業博覧会をきっかけとして、それぞれの都市に都市公園が成立し、そこに動物園(京都市記念動物園天王寺動物園・名古屋鶴舞公園付属動物園)が開設されていきました。

電鉄による"遊園地型動物園"の誕生

電鉄による

一方で、民間資本による「遊園地内動物園」という形での動物園の誕生があります。江戸時代から続く浅草花屋敷(東京都)の他、1907年には天王寺公園(大阪府)に隣接して設けられた遊園地ルナパークの中にも動物園が誕生しました。また、こういった都心に設置されたものとは別に、大正から昭和初期にかけては、電鉄資本が沿線開発の手段として開発した遊園地内に動物園が設けられる流れが大阪で始まったのを皮切りに波及しました。

「無柵式展示」への転換

「無柵式展示」への転換

動物園の展示方法については、昭和初期に大きな変化が見られます。それまでの檻と柵が中心だったものから、1907年にドイツのハーゲンベック動物園で開発された、動物が見やすい「無柵式展示」への転換が行なわれたのです。その先駆けとなったのは、上野動物園です。上野動物園は、1924年(大正13年)に、皇太子殿下(昭和天皇)ご成婚を記念して、上野公園とともに東京市へ下賜されたのをきっかけに、園内設備の大改造が行なわれ、1928年(昭和3年)にホッキョクグマの放飼場とアシカ池が公開され、1931年(昭和6年)には、房総の岩山を再現した造形的にも価値の高い「サル山」が完成。これらは日本で最初の無柵式展示であり、その後の日本の動物園展示のモデルとなります。また、この時代の各動物園では、ゾウやライオン、チンパンジーといった動物による芸が競って行なわれるようになり、春や秋、またお正月に、展覧会や催し物なども開かれ、動物園は市民にとって最大のレクリエーションの場所として親しまれ、利用者も大幅に増えていきました。

「日本人は一生に4回動物園に行く」と表現された戦後の動物園

「日本人は一生に4回動物園に行く」と表現された戦後の動物園

戦争で大きな打撃を受けた動物園の戦後の復興は、1948年に上野動物園に子ども動物園が開設されたことと、「おサル電車」が設置されたことでスタートします。これは、荒廃した社会状況に対して、情操教育を担う目的で設けられたもので、戦時期に激減した展示動物は、国際親善使節の名のもとに各国から寄贈され、平和外交の象徴的な役割を担いながら、充実化が進められていきました。とりわけ、「インディラ」と名付けられたインドのネール首相から上野動物園に寄贈された一頭の子象の人気が高く、インディラと他の動物を含めた移動動物園が組織され、一行は東日本を中心に巡業を行ない、動物園のない都市に大きな刺激を与えました。また、西日本でも17頭のソウや35頭のライオンなどを伴った大規模な民間の移動動物園が組織され、同じような効果を発揮しました。こういったことをきっかけに、全国に次々と動物園が開設されていきました。

面白い表現があります。「日本人は一生に4回動物園へ行く」というものです。これは、1回目は小さい時に親に連れられて、2回目は幼稚園や保育園の遠足で、3回目は自分の子どもを連れて、そして4回目は孫を連れて行くという、戦後から長くの日本人と動物園とのかかわりを表現したものです。

そして、"個々が光る動物園"へ

そして、

しかし、2000年を前後して、日本の動物園は、そういったかかわりだけではない、ある意味、「子どものためのレクリエーション施設という一面だけからの脱却」の道を具体的に歩み始めています。その「今」については、[動物園の「今」を知るキーワード]などで紹介しています。

≪コレ!知っておこう≫「サファリパーク」のルーツは日本にあった

≪コレ!知っておこう≫「サファリパーク」のルーツは日本にあった

動物園のひとつの形態である、園内に車を乗り入れて動物たちを見るサファリパークは、1966年にイギリスのロングリートで誕生しますが、実は、その元祖は日本です。1haの敷地にライオンが放し飼いにされ、その中をバスが走った多摩動物公園のライオンバスがそうで、これは1964年のことです。観客が檻の中の動物を見るのではなく、観客が檻の中に入って動物を見るという逆転の発想から生まれたもので、元上野動物園園長・林寿郎さんのアイデアです。ライオンバスのアイデアはヨーロッパで規模を拡大したサファリパークへと結実し、1970年年代に日本に逆輸入されたのです。

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